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●オステオパシーの歴史

ATスティル

1874年にアメリカで産声をあげる

オステオパシーは1874年にアメリカにて「医師」であるアンドリュー・テーラー・スティル(A.T.スティル)によって創始された手技療法です。

日本で「西洋医学の手技」のイメージが強い「カイロプラクティック(1895年創始)」に比べて若干早生まれの手技療法といえます。

きっかけは薬に対する疑問から

医師として外科/内科の診療活動をしていたA.T.スティル(以下スティル博士)は何故、手技療法の研究を始めたのか。それは診療に携わる中で生まれてきた薬に対する疑問が始まりでした。

スティル博士は医師として南北戦争に従事していましたが、そんな中で娘を3人「流行性脳脊髄膜炎」にて失うという悲劇に襲われます。その経験の中で当時に用いられていた「砒素/水銀」系の薬剤を使用した治療に対しての疑問が生まれてきたのです。

また、自身の臨床現場においても「十分な介護/医療を受けた患者」が回復をせず、逆に「十分な介護/医療を受ける事ができなかった患者」が回復を見せるという本来ならありえないはずの現実を目の当たりにしていました。

そういった現実を見ている中で「病気とは身体の何処かに起きた不具合が根本原因なのではないのか」という仮説へと辿りつくのです。

関節の痛み/内臓異常の共通点は「関節の機能不全」

スティル博士は研究の最中、「関節の痛み/内臓異常」といった症状を訴える患者の共通点が「関節機能の不具合」にあると発見しました。

実際に、その不具合を起こしている関節機能を正常に戻すと・・・・関節の痛みのみならず、内臓に起こっていた異常までもが改善を見せたのです。

その後の臨床による結果、この事実に確信をもったスティル博士は「薬は毒である」という当時の常識から言えば極めて異端/過激な理論を構築し、独自の治療法を模索/実践するに至りました。

ですが、当時の医学会がその意見を受け入れられるはずもなく、スティル博士は結果的に医学会を追放される事となります。

事実がオステオパシーを応援した

医学会を追放されたスティル博士は決して自分の信念を曲げませんでした。何故なら、目の前の患者が次々と薬の投薬をする事無く回復を見せていたからです。

自らの理論/技術(オステオパシー)に対して自信を深めたスティル博士は治療をしながらアメリカ全土を巡り、オステオパシー治療の普及に尽力し、最終的にはミズーリ州カークスビルに居を構えました。

街を変えたオステオパシーの力

全米を巡る治療の旅を終え、カークスビルに落ち着いたスティル博士の元にはアメリカ中からオステオパシー治療を求めて患者が集まってきました。

信じられない話ですが、その来訪患者を見込んだホテルやレストランがカークスビルに次々と作られるまでになったというのです。

多くの患者を救い、更には1つの街に大きな経済効果をもたらしたオステオパシーの伝説的な逸話です。

1892年、遂に正式な医学として認定される

1892年、全米で初めてとなるオステオパシー専門の医科大学がカークスビルに設立されました。これが「カークスビル・オステオパシー医科大学」です。

今ではオステオパシーを学べる大学は20校にまで拡大し、オステオパシーの修了者ドクター・オブ・オステオパシー(DO)は、全米においてメディカルドクター(MD)と「完全に同等」の社会的地位/医療における権限を持つ存在として医療活動に携わっています。

国ごとに異なるオステオパシー

投薬/手術へと進化するアメリカ

オステオパシーは今、大きな分岐点を迎えています。オステオパシー発祥の地であるアメリカではその医療行為における裁量権の豊富さを活用して「投薬」「手術」を主流とした治療へと方向性が定まりつつあります。

※アメリカでも手技に拘る地域も多々あり、カークスビルなどもその1つ。

手技を中心にするイギリスのオステオパシー

一方、1903年頃にアメリカからオステオパシーが伝わったイギリスでは今もなお、手技によるオステオパシーが重視されており、オステオパシーとは別分派(のような扱い?)の「クラシカルオステオパシー」として今も発展をしています。

●日本のオステオパシー

手技を中心にした治療法として浸透

アメリカやイギリスにおけるオステオパシーの「今」は上記の通りです。では日本はどうなのか。日本では手技による治療を中心とした施術が浸透しています。これは法制度が進んでいる欧米とは異なり、日本では国家資格化がされておらず、最初から「投薬/手術」はおろか「診断」すらも認められていない社会的な背景の結果ともいえます。

そしてオステオパシーの日本での認知の遅れは「整体」の誕生にも大きく関わっているのです。

整体術に取り込まれたオステオパシー

何故、カイロプラクティックに比べてオステオパシーは社会的認知が遅れているのか。それは「整体術」の誕生とオステオパシーの渡来が重なってしまったというタイミングの悪さが大いに関わっていると考えられます。

オステオパシーは大正9年以前に既に日本に伝わっていました。大正9年に発行された「山田式整体術講義録」には無薬療法として「オステオパシー」が紹介されており、更には効果が実証されていた事が示されているのです。しかし、残念な事に日本でオステオパシー研究を行った人達は東洋/西洋の手技療法を練り上げ、「整体」という独自の手技療法へと昇華させてしまい、「オステオパシー」という単独技術が注目を集めるには至らなかったのです。

もしも、「整体」が作られず、オステオパシーの研究が更に進んでいたとしたら、今とは全く違った代替医療の業界図があったはずです。

少し色合いが異なりますが、蘭学/西洋医学によってその立ち位置を失ってしまった鍼灸/柔道整復技術に相通ずるものがあります。

国内での浸透が遅れるオステオパシー

日本ではオステオパシー治療院は非常に少なく、看板上は「接骨/整骨」「カイロプラクティック」等を掲げており、施術家がオステオパシー技術も習得をしているというケースが多いのが現状です。これが日本国内におけるオステオパシーの認知度向上を妨げている原因ともいえるでしょう。

※オステオパシー自体の認知度が上がっていない今、オステオパシーを掲げた看板でビジネスを成立させるのはとても難しいです。その為、日本において国家資格化をしている柔道整復師/鍼灸師といった資格を背景に、またカイロプラクティック/整体といった既にある程度認知されている手技療法の看板で集客を図るという構造ができており、オステオパシーの普及は一種の悪循環を迎えているといえます。

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